PQC(耐量子計算機暗号)への移行準備

「量子コンピュータが実用化されると、今の暗号が破られる」という話を耳にしたことはないでしょうか。まだ先の話に思えるかもしれませんが、世界中の政府機関や企業は、すでに移行スケジュールに沿って動き始めています。

PQC(耐量子計算機暗号)とは何か、なぜ今から準備が必要なのか、そして何から着手すればよいのかを解説します。

量子コンピュータができる前に動く必要性

私たちが日常的に使っているHTTPS通信やVPN、電子署名、ソフトウェアのアップデート検証などは、RSA暗号や楕円曲線暗号(ECC)といった「公開鍵暗号」の技術に支えられています。たとえば、RSA暗号は「巨大な数の素因数分解は現実的な時間では解けない」という前提の上に成り立っています。

ところが、量子コンピュータ向けに考案された「ショアのアルゴリズム」を大規模な量子コンピュータ上で動かすと、この前提が崩れると言われています。つまり、RSAやECCは将来的に安全性を失う可能性があります。

この転換点は「Q-Day」と呼ばれ、時期の予測には幅がありますが、2030年代だという見方が一般的です。

ここで重要なのが「Harvest Now, Decrypt Later(HNDL:今収集し、後で解読する)」という考え方です。攻撃者は、現時点で暗号化された通信データをそのまま盗んで保管しておき、将来に量子コンピュータが実用化された段階でまとめて解読する、という戦略です。

個人の医療情報、企業の知的財産、長期契約の内容などは、10年単位で保存しておくでしょう。これらは秘密にしておきたい情報ですが、これらがすでにリスクにさらされていることを意味します。「量子コンピュータができてから対応する」では手遅れになるのです。

標準化はどこまで進んでいるのか

米国国立標準技術研究所(NIST)は2024年8月、量子コンピュータでも解読が困難とされる新しい暗号アルゴリズムを、正式な標準として発行しました。

鍵共有に使う「ML-KEM」(FIPS 203)、電子署名に使う「ML-DSA」(FIPS 204)と「SLH-DSA」(FIPS 205)の3つが中心です。これらは「RSAやECCの後継として使える、お墨付きの暗号」だと言えます。

さらにNISTは、移行の期限についても方針を示しています。NIST IR 8547では、RSAや楕円曲線暗号を「2030年に非推奨、2035年に使用禁止」とする方向性が示されました。これは米国連邦政府向けの基準ですが、グローバルに製品やサービスを提供する企業にとっては事実上のデッドラインとして機能します。

日本国内でも動きは進んでいます。CRYPTREC(暗号技術評価委員会)は2023年に「暗号技術ガイドライン(耐量子計算機暗号)」を公開し、2026年3月には鍵共有アルゴリズムのML-KEMが「電子政府推奨暗号リスト」に追加されました。

政府調達の要件に組み込まれ始めており、民間企業にとっても無視できません。

移行の進め方

では、情報システム担当者は何から手をつければよいのでしょうか。まず必要なのは、自社のどこで、どんな暗号が使われているかを把握することです。これを「クリプト・インベントリ(暗号資産の棚卸し)」と呼びます。

具体的には、次のような観点で洗い出す方法が考えられます。

通信の暗号化Webサイトのサーバ証明書、社内システムのTLS設定、拠点間VPN、リモートアクセス
認証・署名社内PKI、クライアント証明書、コード署名、電子契約サービス
保存データデータベースやファイルサーバの暗号化、バックアップ媒体
機器・ソフトウェアネットワーク機器、複合機、IoT機器、業務パッケージ、クラウドサービス

棚卸しができたら、「そのデータを何年間守る必要があるか」という観点で優先順位をつけていきます。保護期間が10年を超える情報を扱うシステムはHNDL攻撃のリスクが高く、優先度が上がります。逆に、数日で価値がなくなるデータであれば、後回しにしても問題ないでしょう。

現在の主流の考え方が、既存の暗号とPQCを組み合わせて使う「ハイブリッド構成」です。従来のECCと新しいML-KEMを併用し、どちらか一方が破られても安全性が保たれるようにする方式で、実績の少ない新アルゴリズムを採用するリスクを抑えられます。TLSやVPNの分野では、主要ベンダーがこの方式への対応を順次進めています。

そして、長期的な考え方として「暗号アジリティ(Cryptographic Agility)」があります。これは、暗号アルゴリズムを後から差し替えられるようにシステムを設計しておくことです。暗号がアプリケーションに埋め込まれ、簡単に交換できない状態になっていると、新しい脅威が将来に見つかると、同じ苦労を繰り返すことになるためです。

まとめ

現実的なアクションとしては、まず今年度中に棚卸しと影響評価を終え、システムの更改やリプレースのタイミングに合わせてPQC対応版を選定していく、という進め方が考えられます。ベンダーとの打ち合わせの際に「この製品のPQC対応ロードマップはどうなっていますか」と尋ねることも、移行準備の第一歩です。

著者プロフィール
増井 敏克氏(ますい としかつ)
増井技術士事務所代表。技術士(情報工学部門)、情報処理技術者試験にも多数合格。
ビジネス数学検定1級。

「ビジネス」×「数学」×「IT」を組み合わせ、コンピューターを「正しく」「効率よく」使うためのスキルアップ支援や各種ソフトウェア開発、データ分析などをおこなっている。

著書に『図解まるわかり セキュリティのしくみ』『図解まるわかり プログラミングのしくみ』『図解まるわかり アルゴリズムのしくみ』『IT用語図鑑』『IT用語図鑑[エンジニア編]』『Pythonではじめるアルゴリズム入門』『プログラマ脳を鍛える数学パズル』『プログラマを育てる脳トレパズル』(以上、翔泳社)、『プログラマのためのディープラーニングのしくみがわかる数学入門』『プログラミング言語図鑑』(以上、ソシム)、『基礎からのプログラミングリテラシー』(技術評論社)、『RとPythonで学ぶ統計学入門』(オーム社)などがある。